
TVゲーム今昔
1987年(昭和62年):複数メーカーにより開発されたゲーム機
「発売された主なゲーム」
・1/14 リンクの冒険161万本
・1/26 ドラクエⅡ241万本
・6/21 イース 失われし古代王国
・6/26 燃えろプロ野球158万本
・10/26 桃太郎伝説
・10/30 PCエンジン
・10/30 ビックリマンワールド
・11 セガマスターシステム
・11/21 THE功夫
・12/1 中山美穂のときめきハイスクール
・12/18 ファイナルファンタジー
・12/20 マークⅢでファンタシースター
・12/22 ファミスタ87 130万本
■ゼルダの伝説の続編
ディスクシステムソフト第一弾『ゼルダの伝説』の続編として作られた「リンクの冒険」が年明け早々に発売されます。
まず大きな変更点として、前作は随時見下ろし型のマップ移動で途中に敵が出現して戦うというマップ移動と戦闘シーンでの区別がありませんでしたが、今作はマップ移動時のみ見下ろし式で、マップ移動中にシンボル化された敵に接触すると画面が切り替わり戦闘は真横視点の横スクロールアクションとなります。
ゲーム進行ですが、前作は「ガノン」に奪われた力のトライフォースに対抗出来る知恵のトライフォースのかけら8片が隠された8つの迷宮をクリアして欠片を集め、ガノンの住む城へ向かうという設定でした。
今作は目覚めない眠りの呪いに掛けられた初代ゼルダ姫を目覚めさせる為に必要な「力」・「知恵」・に次ぐ第3のトライフォース「勇気」のトライフォースが眠る大神殿への封印を解く為に、6ヶ所の神殿にある聖なる石にクリスタルをはめて行く…という物でした。
前年発売されたドラクエのヒットによるRPGブームの影響なのか、主人公のリンクには敵を倒して経験値が一定値以上貯まると攻撃力・魔力・体力のどれかを1段階レベルアップ可能という育成システムが追加されました。今回はリンクが成長して頭身が高い為に戦闘の防御も上段と下段を使い分けたり、後半の敵の強さや広大な迷路等、後に発売されるシリーズでも屈指の難易度と言われています。
ちなみにある町の墓地を調べると「ユウシャロト ココニネムル」とドラクエ主人公の墓が見つかります。更に年末にスクウェアから発売されたファイナルファンタジーでは、「リンク ここにねむる」という墓を見つける事が出来ます。
今はありませんが、昔はこんな他社のキャラをいじったネタがありました。(しかし当時倒産寸前だったスクウェアがリンクをいじったのはすごい。どうせ最後のソフトだし、と半ばやけくそだったのでしょうか?)
■竜退治の続編
家庭用TVゲーム機初の本格的RPGとして昨年5月に発売された「ドラゴンクエスト」から半年、続編の 「Ⅱ」 がこの年1月に発売されて前作の100万本ヒットの勢いそのままに各地で行列・売り切れが続出します。
「RPGといえばドラクエ」 として揺ぎ無い地位を築き、その後ドラクエを参考にした様なゲームが次々と発売されます。ただし半年というあまりに短い開発期間から、オープニングからラスボスがいるエリア(ロンダルキア)まで通してテストプレイが出来ないまま発売となった為に全体的な難易度バランスが取れていませんでした。
物語終盤のロンダルキアへ通じるラストダンジョンからラスボスまでに遭遇する敵の強さは 「シリーズ中最高の難易度」 として今でも伝説となっています。しかしこのゲームにはもっと恐ろしい敵がいました。
まだカセットにセーブ出来る機能が無かった当時、ドラクエには本体の電源を切っても続きがプレイ出来る様に 「ふっかつのじゅもん」というパスワードが採用されていて、当時の勇者達はそれをノートに書き写して冒険を続けていました。
しかし前作の20文字から52文字と倍以上にじゅもんが増えた為にノートに写し間違えたり眠い中で書き取った文字が判別出来ずに次の日に続きをやろうと思って入力したら
「じゅもんがちがいます」
と表示されて前日に進めた冒険が無かった事になる悲劇が多発、「ラスボス以上の敵」 として世の勇者達を震え上がらせました。ドラクエⅡの難易度は別格でしたが、攻略法の通りに操作する技術や反射神経が必要なアクションとは違って、RPGは時間を掛けて主人公を強くすればまず誰でも解けるジャンルだった為に「アクションは苦手だけどRPGなら」という新たなユーザー層を開拓します。
■セガマークⅢの拡張版
元々 「セガマーク3」 の海外版だった「セガマスターシステム」(¥16800) が日本で発売されます。国内セガユーザーから強く要望が上がっていたFM音源と当時のシューティングゲームブームから連射機能を海外版マスターシステムに追加して発売されました。
しかし 「セガマーク3」 同様、ファミコンがあまりにも完璧に子供達の心を掴んでいた事と、またしてもサードパーティ参入に手間取り日本国内ではごく一部のセガファンを歓喜させて終わりました。
また、この年マークⅢでセガは初の自社製RPG「ファンタシースター」 を12月に発売します。3つの惑星を渡り歩く壮大なSFファンタジーで当時は珍しかった戦闘シーンの敵アニメーション等、これ以降に発売されるセガの家庭用TVゲーム機でも続編が発表され、人気シリーズとして現在でも関連タイトルのリリースが続いています。(Wiiのバーチャルコンソール600ptで購入可能です)
ちなみにこのタイトルはどこでもセーブ可能になっています。大変便利なのですが、ダンジョンの奥深くでパーティ全員が瀕死の状態で脱出手段も回復アイテムも無い状態でセーブしてしまうと、再開してもどうしようも無い状態なので最初からやり直しになるという恐怖の仕様でした。
初のRPG制作でセガも不慣れだったとはいえ、やり直した当時のプレイヤー(アリサ)達に、合掌。
■6/21 今、RPGは優しさの時代へ
↑をキャッチコピーにして、PC8801というパソコンで日本ファルコムから「イース」というアクションRPGが発売されます。(動画はイースⅡのオープニングです)
当時パソコンのRPGはファミコン等の家庭用TVゲーム機のRPGよりも内容が挑戦的で、普通にプレイしたのでは解けない様なストーリーと全く関係ない謎が入っているのが普通で圧倒的に難易度が高いのが特徴でした。しかし 「イース」はキャッチコピーの通り、謎解きのヒントを必ずゲーム中に配置して 「誰でも解けるけど優しい訳ではない」 という考えれば解ける絶妙な難易度で「RPGは理不尽な謎解きで難しくする必要はない」という姿勢を提供します。
ゲームバランスに重点を置いた作風は一部のマニア達のものだったRPGを一般のユーザーに開放したとまで言われ、その後のRPGに大きな影響を与えました。また、ゲームバランスだけでなくBGMや登場キャラにもファンが多く、当時はまだ珍しかったOVA・小説・漫画等の様々なメディアミックス展開が行われて「ファルコムショップ」というメーカー直営のキャラクターグッズ専門店で販売される等、関連グッズ商法の方向性も示しました。
(イース発売後)
当初の企画では『I』と『II』の両方を含むものでしたが、フロッピーディスクが予定枚数に収まらない事とスケジュールに間に合わない事から急遽最終面としてダームの塔を付け加えて『I』として発売されました。
その為に最終面のダームの塔はレベルアップの要素が全く無いアクションゲームになっています。
当初の予定とは違う内容ながら、当時『ザナドゥ』でユーザーから絶対的な信頼と人気を得ていた事から本作も大ヒットとなり、本来後半部分だった『II』の制作が決定します。しかし当時ファルコム経営陣とイース制作スタッフの人間関係が悪化しており、マップ・キャラクタ・マニュアルのイラストなどを担当していた都築和彦氏や音楽担当の古代祐三氏等がファルコムから離れて行きます。
その後イースとは関係なく提出したタイトルの企画を、人気シリーズ『イース』の続編として売り上げを期待したい経営陣が『イースⅢ』として制作指示を出した事で経営・制作間の亀裂が決定的となります。
『I』からディレクション・ゲームデザイン・メインプログラム担当だった橋本昌哉氏とシナリオ担当の宮崎友好氏がファルコムを去り、この時点で主要制作スタッフがほぼファルコムからいなくなります。ファルコムを離れた主要スタッフ達はその後、1989年に「ゲーム制作はプログラマー・企画・グラフィック・サウンド・プロデューサーの5重奏で奏でられるもの」という意味で、音楽用語の五重奏を意味する「クインテット」という制作会社を設立します。
『イースI・II』のシナリオライターだった宮崎友好氏とメインプログラム担当だった橋本昌哉氏、そしてサウンド担当だった古代祐三氏が結集してスーパーファミコン発売1ヶ月以内の最初期ソフトとなるアクションとシミュレーション2つのパートからなる『アクトレイザー』や、アクションRPG『ソウルブレイダー』・『ガイア幻想紀』・『天地創造』等を発売します。(発売元はエニックス)
作品独特の世界観や、イース時代から『今までのゲームサウンドは何だったんだ』とユーザーに衝撃を与えた古代氏のオーケストラ調サウンドは当時のユーザーから高い評価を受けます。しかし2000年を境に同社の名前はゲーム業界で見なくなり、自然消滅する形で活動を停止しています。
■10/26 王道おとぎ話RPG出陣
ハドソンからファミコン用RPG「桃太郎伝説」が発売されます。
監督のさくまあきら氏は当時、週刊少年ジャンプで読者おたよりコーナー「ジャンプ放送局」を担当していました。そしてこの頃は大学時代の友人である堀井雄二氏が製作した『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』が行列ができる程の社会現象で品薄となっており、購入できなかったさくま氏は堀井氏の元へソフトを貰いに行こうと考えます。
しかしジャンプ放送局のイラスト担当だった土居孝幸氏の家の方が近い事から土居氏に借りに行った際に「俺たちもゲーム作りたいね」という話になり、さくま氏の鉄道好きを生かして「新幹線殺人事件」という推理アドベンチャーを提案します。しかし土居氏は乗り物や機械を描くのが嫌だった為に難色を示し、それらが登場しない昔話の世界観を提案します。
そして友人の堀井氏が作ったドラゴンクエストから、
「竜王を倒すのって桃太郎っぽいね」
「ジャンプ放送局で担当者を桃太郎・金太郎・浦島太郎に見立てた“太郎ズ”の絵が描かれているけど、地名を金太郎の村、浦島の村にしたら分かりやすいよね」
…等と話が弾み、堀井氏からも「ゲームは儲かるし借金も返せるよ」と言われた事や、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ』の発売日が当初の12月から翌年に遅れる事を事前に教えてもらった事で、「12月より前に発売すればそこそこ遊んで貰えるかも」という思惑を抱いて桃太郎をベースにしたRPG製作の話が具体化して行きます。
この企画をどこに持ち込もうかと悩んでいたとき、「カニとウニとイクラがうまいし、知り合いのスタッフに蟹を食べに行こうと声を掛けやすい」という理由で本社が北海道だったハドソンを製作元に決めます。(ちなみにハドソンに提出した企画書はわずか8ページだったとか)
更にさくま氏は『ジャンプ放送局』に毎週何万通と寄せられる投稿者のギャグやネタの面白さを利用しようと、ゲームに転用できるアイデアを購入者にも成り得る投稿者から募ることを提案、ジャンプ放送局に特集コーナーを設けて読者から多くのアイデアを募りました。ちなみに80年代当時の少年ジャンプは、
・北斗の拳
・キン肉マン
・ドラゴンボール
・こち亀
・シティハンター
・キャプテン翼
・聖闘士星矢
・ジョジョの奇妙な冒険
…等のどこを読んでもハズレが見つからない黄金期を迎えており、読者層とゲームのターゲット層が一致したこれ以上ない宣伝媒体でした。またアイデアを出す投稿者達も、一緒にゲーム製作に参加しているんだという連帯意識が生まれ、アイデアが採用されるとエンディングクレジットに名前が表示された事から、プロの開発者でも驚く一般視聴者ならではのアイデアと十分過ぎる宣伝効果を得ます。
しかし一人でゲームを製作出来るノウハウを持ち、エニックスのプログラムコンテストで入賞してゲーム業界に入った堀井氏と違い、さくま氏はゲーム開発経験がなかった事から堀井氏にテストプレイをしてもらってアドバイスを受けたり、戦闘シーンのダメージ計算や敵の行動アルゴリズムが出来ていない事を担当者に指摘された際、ゲーム開発者でも何でもない広告代理店の担当者にお金を渡すと
「それじゃドラクエⅠとⅡ買ってプレイして、戦闘システムを解析して計算式作ってくれる?」
と冗談の様な無茶振り。しかしこの無理難題を押し付けられた広告代理店の担当者が、何とその通りに戦闘システムを解析して計算式を作成、システムに組み込んでしまいます。これで「こいつ使える」とさくま氏&ハドソン開発陣に目をつけられてしまったこの担当者は、その後もハドソンのゲーム開発に度々駆り出されて類稀なゲームデザイン能力を発揮して自分が所属する会社に戻れない日々が続いてしまい、遂にはそのままゲーム業界にデビューしてしまいます。
ちなみにこの担当者は桝田省治(ますだ しょうじ)氏で、後にハドソンで家庭用TVゲーム機初のCD_ROMを採用した大作RPG「天外魔境」では監督を、そしてその後も
・メタルマックス
・リンダキューブ
・ネクストキング恋の千年王国
・俺の屍を越えてゆけ
等のヒット作を生み出して行きます。
■ソフトはハドソン、ハードはNECのゲーム機が発売
10月に家庭用TVゲーム機 「PCエンジン」 が¥24800で発売されます。
ハドソンと言えばファミコン初のサードパーティとしてロードランナーやナッツ&ミルク等のヒット作を送り出したゲーム開発メーカーというイメージが強いですが、実はファミコンの周辺機器 「ファミリーベーシック」 用のBASIC言語を開発したり、シャープ製パソコンのBASIC言語やOSを開発していたりとソフトウェア全般の開発で定評のあるメーカーでした。
ファミコン初のサードパーティとしてファミコンの躍進に大きく貢献して業績を上げたハドソンですが、本来持っていた技術力の高さからソフト開発においてファミコンに搭載されたCPU性能では物足りなくなって来ます。
ファミコンで結構儲けたし商売抜きでCPUでも作ってみようと半導体メーカーのセイコーエプソンに依頼、約2億円を掛けてオリジナルCPU 「Hu-7」 を製造します。(自己満足の為に2億使ってしまう所に当時の羽振りの良さが伺えます)
こうして希望通り描画能力でファミコンの数段上の性能を発揮する自社製オリジナルCPUを手に入れたハドソンは、予想以上の出来だった事からこのCPUを使った商品開発の話をいくつかのメーカーに持って行きます。
以前シャープ製パソコン開発の仕事をした経緯からシャープに話を持って行きますが、シャープはゲーム&ウォッチ用液晶開発の頃から他社で唯一のファミコン互換本体 「ツインファミコン」 の製造を許される位に任天堂と懇意にしていた為に断られます。(ちなみに 「ファミコン」 という呼称は元々シャープが家電製品で申請・取得していてそれを任天堂に譲ったなんていきさつもあります)
その後以前からゲーム機開発を考えていたNECと投合、話をした翌日にはNEC担当者がハドソンを訪ねて来ました。ちなみにハドソンを訪ねて来たNECの後藤富雄氏はNEC初のパソコン「PC-8001」や「PC-8801」・「PC-100」等の開発に携わったNECパソコンビジネスの中心的存在だった人物です。
当時後藤氏はパソコン事業部からグループ企業のNECホームエレクトロニクスに出向しており、ファミコンの隆盛を見ながらコンピュータの新しい可能性を求めてCD_ROMを使って映像や音楽等のメディアを統合して使える家庭用知育&ゲーム機の開発を検討していました。
しかし当時まだ珍しかったCD_ROMドライブを搭載するとどうしても小売目標額の10万円を切れず、またゲーム機に適したCPUを設計する技術も無かった為に開発が停滞していました。そんな時にハドソンからCPUを作ったから見て欲しいと言われたのです。
更にハドソンはソフトメーカーとしてもファミコン最初期のサードパーティとしてヒットタイトルを多く抱えていたので、NECから見れば「ゲーム機開発に適したCPU」 と 「人気タイトルを持つソフトメーカー探し」という2つの問題が同時に解決する事になります。
こうして互いの望む物を補い合う形でPCエンジンが誕生しました。ちなみに「Hu-7」を元にPCエンジンに搭載されたチップセットは「HuC62」と言います。チップセットの「Hu」はハドソンの頭文字で「C62」は鉄道ファンだったハドソン創業者の工藤裕司氏が好きだった「C62型蒸気機関車」に由来します。(ちなみにハドソンという社名もこの蒸気機関車の車軸配置が「ハドソン型」と呼ばれる所から来ています)
メインCPUはファミコンと同じ6502のカスタムチップで8bit性能でしたが、その性能は約4倍、更に描画処理用のサブチップは16bit処理を実現していました。その為グラフィック能力はファミコンとは比較にならないクオリティを実現してファミコンでは移植不可能だったアーケードタイトルが多数移植されます。
更にPCエンジンはゲーム機に留まらずに 「家庭内コンピュータ」 を目指すNECの意向から、様々な周辺機器を接続して使用する 『コア構想』 というコンセプトが盛り込まれ、プリンタやスキャナー等が発売されました。
基本メディアは 「HuCARD」 と呼ばれるICカード型のROMカートリッジですが翌年1988年12月に発売される拡張機器の 「CD_ROM2」(CDロムロムと読みます)というドライブを接続すると、「家庭用TVゲーム機初のCD_ROMドライブ搭載マシン」になります。
しかし年末商戦に発売しておきながら同時発売タイトルが 「No.Ri.Ko」 と「ファイティングストリート」 の2本だけという貧弱さで、業界初のCD_ROMドライブでしたが発売当初の売り上げは伸びませんでした。
※「ファイティングストリート」 とは当時アーケードで人気を博し、後に対戦格闘ゲームの元祖となる 「ストリートファイターⅡ」 の前作にあたる「ストリートファイター」というタイトルの移植作です。アーケード版は 「ストリートファイター」 というタイトルでしたが諸事情で違う名前でリリースされました。
しかし半年後の89年6月、オープニングから喋りまくるナレーションと声優起用のキャラクターボイスや高音質BGM、そして大容量ならではの壮大なストーリーと豊富なグラフィックパターンというCD_ROMの長所を活かした長編RPG「天外魔境ZIRIA」がハドソンから発売されると一気に注目が集まります。
更にこの半年後の89年12月にはパソコン(PC88シリーズ)用アクションRPGとして当時の「解けないお前が悪い」という理不尽な難易度が当然だったRPGの概念を崩壊させて一般ユーザーにRPGの楽しさを解放したと言われる名作「イース」が移植、発売されます。
パソコン版では実現不可能だったCD音源のキャラボイスやBGM、そしてビジュアルシーンとイースファンが望んだ要素満載の移植作でCD_ROM2は一気に知名度を拡大します。
こうして大容量・高音質を生かしたCD_ROM2で声優を起用したタイトルが多く発売された事でゲーム業界での声優需要が高まって行き、その後の「ゲームに声優起用は当たり前」 という風潮になったと言われています。
しかし「大容量媒体による盛りだくさんのビジュアルシーン」と「通常アニメでしか聞けない声優の起用」が売りとなった事で人気アニメのアドベンチャーゲーム(デジタルコミックシリーズ等)が多数作られて「PCエンジンはアニメ好きが買うマシン」という認識が広まります。これは当時のCPUではまだ現行のポリゴン描画が実現出来る程の性能は無く
「大容量は実現したけど何に使おう?」
と考えた時に当時は画像・音声データの増量が最も有効で実現可能な活用法だったからで、PCエンジンで無くても初めてCD_ROMを搭載したゲーム機ならこういう印象を与えてしまうのは仕方なかったと思います。また、この拡張ドライブは単体でCDプレイヤーとしても使用可能で当時普及途上で高価だったCDプレイヤーの廉価版として購入する人も多くいました。
しかしCD_ROMという新媒体によってゲーム史上に残る足跡を残したCD_ROM2にも重大な短所がありました。メディアは媒体を変えて一気に大容量になりましたが、そのメディアからデータを読み込んで展開するゲーム機本体のメモリまで一気に大容量とは行かなかったのです。
大容量のゲームを作っても、そこから読み込んだデータを蓄えておくメモリが小さければ何度もメディアへアクセスする事になります。その結果何度もゲームの進行が止まり、遊びたいのに遊べないユーザーはどんどんストレスが溜まるという従来のROMカートリッジには無縁だった「待ち時間」 問題が発生したのです。
この問題に対処したハードが発売されるのは1991年になります。
■最後の夢
この頃、1983年に設立したスクウェアは設立4年目にして倒産寸前の危機に陥っていました。1984年のPC用ゲームリリースを皮切りに1985年からはファミコンにも参入、1986年に発売されたディスクシステムでは当時PC用ゲームを主に開発していたメーカー7社と共にDOG(DiskOriginalGroup)というブランドを結成してROMカセットよりコスト面でリリースがしやすいディスクシステム用タイトルを積極的にリリースします。
しかし、先に述べた様にディスクシステムが当初の思惑通りROMカセットにとって変わる存在とならなかった為にDOGブランドは自然消滅、中々経営を軌道に乗せられませんでした。
スクウェアは「これが売れなければ倒産。これが最後の夢」という意味で名付けたRPG「ファイナルファンタジー」を年末に発売すべく制作していました。
しかし発売に向けて準備をしていた矢先、悪夢の様な情報が飛び込んで来ます。当時すでに国内RPGの代名詞的存在だったドラゴンクエストの第三弾が12月発売と発表されたのです。圧倒的知名度で社会現象間違いなしの人気を誇るドラクエが発売されれば、年末商戦はドラクエ一色となって他のタイトルはもちろん、知名度の全く無いしかも同ジャンルのRPGタイトルなど無かったかの様に蹴散らされるのは明白でした。
やはり夢は夢のまま終わるのか。そんな絶望的な雰囲気の中、ドラクエⅢが来年に発売延期となります。そんな中、予定通り年末に発売された「ファイナルファンタジー」はドラクエのうわべだけを真似たRPGが溢れる中で 「これはドラクエと違う面白さだ」と評価を受けます。
実はこのゲーム、従来のスクウェアスタッフでは実現出来ない処理がいくつも実装されていました。このゲームの完成にはナージャ・ジベリという伝説的プログラマが当時スクウェアに在籍してした偶然が大きな影響を与えています。
ナージャ氏は自分の経営するゲーム会社が1983年のアタリショックで倒産した後に放浪の旅を続けている中で坂口氏と知り合い、スクウェアでファイナルファンタジーⅠ~Ⅲや聖剣伝説2、とびだせ大作戦等の開発に携わります。ファイナルファンタジーで飛空挺に乗って移動する際の高速スクロールは彼がファミコンにわざとバグを起こさせて実現しています。(本来実現不可能な移動速度に任天堂の開発陣も驚愕)
後に彼が開発に携わるFFⅢのリメイク版が発表されてから5年以上もかかって発売されたのも、オリジナル版のナーシャ氏のプログラムがファミコンの限界を超えて(バグも機能の1つとして)書かれていた為に他のスタッフがプログラムを見ても何をしているのか理解出来ず、リメイク版開発時にはナージャ氏はスクウェアを去った後だった為に解析に時間が掛かったからとも言われています。
スクウェアが会社存続の危機に手堅く売り上げが狙えるジャンルで無く、会社として制作経験の無い坂口氏のやりたいRPG開発を許可した事。
会社存続の命運を掛けたタイトル開発時、社内にナージャ氏という伝説的な天才プログラマーがいた事。
同じ年末発売だったドラクエⅢの発売が翌年に延期された事。
まるでこのソフトが世に出て支持を受けるのが約束されていたかの様な偶然の中、「最後の夢」を50万本売り上げたスクウェアは息を吹き返して次回作を作る機会を得ます。そして今やドラクエと並んで国内RPGを代表するタイトルとなった当時のスタッフ達の夢は今もまだ続いています。
1987年の主な出来事 (大卒初任給 約152,630円)
『一般』
・日本初の女性エイズ患者認定
・国鉄が民営化されてJRに
・中嶋悟が日本人初のF1ドライバーに(鈴鹿サーキットで初のF1レース開催)
・後楽園球場が解体、東京ドームへ
・NTTが携帯電話サービス開始
・アサヒビールが「アサヒスーパードライ」を発売、人気商品に。
・有明コロシアム完成
・秋元康プロデュース「おニャン子クラブ」解散 (後にAKB48結成)
『ゲーム業界』
・NECとハドソン共同開発によるゲームマシン「PCエンジン」発売
・スクウェアから「ファイナルファンタジー」発売。ドラクエに匹敵する面白さと絶賛
・カプコン「ロックマン」発売。以後ボスデザインをユーザーから募集する
・日本ファイルコムから「イース」発売
『ヒット曲』
・命くれない、愚か者、君だけに、STAR LIGHT、ろくなもんじゃねぇ
『流行語』
・マルサ、サラダ記念日、朝シャン、サンキューセット
『この年に生まれた有名人』
・長澤まさみ、織田信成、相葉弘樹、チャングンソク
・喜多村英梨、平野綾、後藤沙緒里、明坂聡美、入野自由
『TVドラマ・アニメ・映画』
・きまぐれオレンジロード ・機甲戦記ドラグナー ・シティーハンター
・ミスター味っ子 ・赤い光弾ジリオン ・陽あたり良好
・レモンエンジェル ・ビックリマン ・アニメ三銃士
・スケバン刑事 ・マルサの女 ・ハチ公物語
・プラトーン ・トップガン ・ビバリーヒルズコップ2