
TVゲーム今昔
1986年(昭和61年):書き換えゲーム機と竜退治の始まり
「発売された主なゲーム」
・2/21 ディスクシステム
・2/21 ゼルダの伝説169万本
・4/25 FCグラディウス
・小島秀夫氏がコナミに入社
・5/27 ドラゴンクエスト150万本
・6/3 スーパーマリオ2 265万本
・6/6 「ファミコン通信」創刊
・7/1 シャープからツインファミコン発売
・7/20 セガマークⅢ北斗の拳
・7/21 ディスクでバレーボール198万本
・8 アーケードでストリートファイター稼働
・9/26 ディスクで悪魔城ドラキュラ
・12/10 ファミスタ205万本
・12/21 マークⅢでスペースハリアー
■2/21 書き換えられるゲーム機の誕生
2月21日、500円でゲームの書き換えも出来るというファミコン拡張マシン『ディスクシステム』が発売されます。
ROMカセットの容量不足と半導体の品不足・価格高騰に対して開発された磁気ディスクメディアのファミコン拡張機器でした。
「ディスクシステムの特徴」
・ROMカセットの弱点をモロに補う大容量・安価な磁気ディスクを採用
・セーブデータが書き込めるので、本体の電源を落としても次の日に保存したデータを読み込んで昨日の続きが遊べる
・ゲームに飽きたら500円で別のゲームに書き換えられる
・「ディスクファックス」 というモデムと電話回線を繋げてネットワークを構築する
ちなみに媒体として採用されたのはフロッピーディスクではなく、日立マクセルが開発したもののフロッピーディスクに押されていた「クイックディスク」です。見た目がフロッピーディスクと似ていますが構造が単純な分安価で耐久性も優れていました。
「クイックディスクの特徴」
・2.8インチで片面32KByte(両面で64KByte)
・フロッピーディスクに比べて安価だがランダムアクセス不可でシーケンシャルのみ
・読み取りヘッダが片方しかないので表と裏を入れ替えてセットする必要がある
・フロッピーの様にトラックがなくレコードの様に「片面全部で1つのデータ」なので1Byte読むにも片面全てを読み込む必要がある(約8秒かかる)
・読み込んだデータを保存する片面(32KByte)以上のDRAMが必須
任天堂は違法ソフト対策としてディスクケースをオリジナルのサイズに作り直して「今後ゲームは全てディスクシステムで発売する」とまで宣言する自信を持って発売します。ディスクシステムでは『ゼルダの伝説』や『メトロイド』といった現在でも任天堂の看板タイトルになっているゲームが登場して販売台数も450万台と決して悪くない数字を残します。しかしディスクシステムはROMカセットの後継者にはなれませんでした。
供給不足だった半導体が過剰生産で価格が急落して品不足と価格高騰問題が解決してしまった事と、ROMカセット内にバッテリーを内臓してデータを保存する 「バッテリーバックアップ」 が可能になった為にディスクシステムを使う意味が一気に薄れてしまったのです。
次に流通業者の反感を招きます。ゲームディスクが1枚2500円前後とROMカセットの約半額で書き換えなら販売価格はたったの500円。この価格設定では儲けが乗せられないのです。しかも書き換えの場合は商品として流通しないでお客の手に渡るので流通業者は完全に蚊帳の外になります。
そして販売価格の何割かが儲けとなるサードパーティにとっても「500円の何割かをもらってもねぇ…ROMカセットで作った方がいいや」とディスクシステム用ゲームの開発を敬遠しました。またディスクシステムでゲームを発売する際のライセンス契約が厳しくゲームソフトの著作権は任天堂と折半する事が条件でした。
自分達が作ったゲームの著作権を半分提供する上にソフトが1本売れて入って来る儲けはROMカセットより少ない500円前後だったとか。ちなみに任天堂は原価100円のディスクにソフトを書き込んで開発メーカーに800円前後の納品だったそうです。
その後ソフトが売れようが売れまいが、製造過程で1本につき700円×製造本数分の金額が100%確保出来るのです。ちなみにここまで全く触れていない「ネットワーク構想」は「ゴルフJAPANコース」等のソフトで全国ランキングを競う企画で小売店のディスクファックスにディスクをセットすると任天堂にゲームのスコアが送信されるという使われ方をした位であまり活躍する場はありませんでした。
そんな経緯を経て、ディスクシステムの販売台数は発売初年度をピークに徐々に減少して淘汰されます。
■ソニーからの使者
ディスクシステム発売から2~3ヵ月後、ソニーの技術者である久夛良木健 (くたらぎ けん) 氏が任天堂を訪れます。まずノウハウのある音まわりで音源チップを任天堂に提案し、任天堂もその音質の良さから採用を検討します。
次に本題として、任天堂がディスクシステムで採用したクイックディスクの欠点を指摘した上で
「ファミコンの後継機にCD_ROMメディアの採用を検討して欲しい。」
と持ち掛けます。その後1991年までの5年間、任天堂とソニーで協議を進めて行く事になります。
■ナムコのNC1プロジェクト
この年ナムコは自社TVゲーム機「NC1 (Namco Consumer 1)」の開発を開始します。当時ナムコはハドソンと共にファミコンの初参入サードパーティとして任天堂から最恵国待遇(年間製造本数無制限・任天堂の工場以外でカセット量産許可など)で迎えられていました。
任天堂と協力体制にありながら、そのファミコンのライバル機を開発しようというのです。当時すでにファミコンが市場独占状態であった中、サードパーティを打ち切られる報復措置を取られても仕方ない行為です。ナムコの中村雅哉社長は計画を立ち上げた理由について
・技術者としてメーカーとして自社ハードを持ちたいという願い
・1社による市場独占は好ましくない。市場は競争相手がいるべき
という説明をしています。任天堂と競り合う企業がないならウチがなってやろうという訳です。ナムコは16bitCPUを搭載したCD_ROM媒体のゲーム機を製品化出来る所まで開発を進めます。製品化の目処が立った時、改めてファミコンに勝つ戦略を考えます。当時約1000万台が普及していたファミコンに対抗するのは並大抵の努力では不可能です。
そして「ゲームソフトを2本買ってくれたら本体プレゼント」という大胆な戦略を考えます。しかし数百万台の本体を配るというのは、数百億のお金をばら撒くという事、更にある意味ハードより重要なソフトの問題があります。
本体の儲けを諦めるのならソフトのラインナップを充実させるのが一層重要になる。しかし自社タイトルはともかく、サードパーティはファミコンにがっちり押さえられていて人気絶頂のファミコンからこちらに乗り換えてくれるメーカーが果たして何社いるのか、全く予測出来ませんでした。以上を検討した結果、ナムコは自社ハードの製品化を断念します。
その後、サードパーティ契約から5年目の1987年にナムコは任天堂から最恵国待遇を剥奪されます。当時ナムコはファミコン最初期から参入してファミコン人気を支えた功労者として年間リリースタイトル無制限という優遇措置を受けていました。ナムコはこの優遇措置を利用して、他ゲームメーカーからロイヤリティを得てナムコタイトルとして他社タイトルをリリースしていたのです。
本来ゲームメーカーがファミコンタイトルをリリースしようと思えば、任天堂とライセンス契約を結び、ロイヤリティを任天堂に納めます。しかしナムコは任天堂の好意で得た優遇措置を使って本来任天堂が得るはずの他社ロイヤリティを自社の儲けにしていました。
こうした恩を仇で返す行為と、商品化されなかったとはいえファミコンに対抗する自社製ゲーム機の開発話を聞いた任天堂にしてみれば便宜を図る気も失せたのでしょう。
■もう1つの最恵国待遇メーカーはCPUを開発
ナムコが自社ハード計画を発動したこの年。ナムコと並ぶ最初期にサードパーティ入りしたハドソンもまたCPUを開発しようとしていました。しかしナムコとは意図が少し違いました。ハドソンの工藤浩社長は・・・・・・
・ファミコンで儲かって金が出来た
↓
・最近ソフトの開発レベルがファミコンのCPUじゃ実現出来なくなって来ている
↓
・じゃあどんなCPUがあればいい?
↓
・社員に半導体作ってた人間もいるし、いっちょ自分とこで作ってみるか
というコメントを残しており、最初は全くビジネスにしようと思わずただ欲しいから作ってみようという事だったそうです。しかしCPUを作るといっても実際にハドソンが作れる訳ではないのでさっそく半導体メーカーに話を持って行きます。
「別に作って売るつもりはないから、とにかく1個作って欲しい。自分の机にファミコンより性能の良いゲーム機が1台あればいいので」
・・・うらやましいというかなんというか、こんな感じで完全に自己満足の世界だったようです。しかしそんな漠然とした理由で、しかも業績を上げたとはいえゲーム業界以外でほぼ無名な北海道から来た会社の話を信用してまともに聞こうとする半導体メーカーはほとんどなかったそうです。ようやくエプソンの担当者から「分かりました。作るには費用が大分掛かりますが資金は大丈夫ですか?」と聞かれた時、工藤氏は
「金ならいくらでも用意します。なんなら今ここに積みますから」
と言って担当者を呆れ驚愕させたそうです。(今更ですが工藤氏は豪快な性格で有名な方です)
こうして2億円の費用を掛けて 「Hu-7」 というCPUが誕生します。いざ動かしてみると描画能力でもファミコンより数段上の性能を発揮するオリジナルCPUの仕上がりに「これで何か出来るんじゃないか?」と考えてパソコン関係の取引があったシャープに見せると「これは売れる」と盛り上がります。
しかしシャープはゲーム&ウォッチを共同開発した時から任天堂と取引を続けていたために「任天堂さんのライバルになるかもしれないハードの開発はウチではちょっと・・・」とシャープと何か作ろうという話はまとまりませんでした。次にNECに話を持って行くと「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていた」
と次の日にはNECの担当者がハドソンを訪れ、トントン拍子に話がまとまって翌年の1987年にハドソンとNEC共同開発による家庭用TVゲーム機が発売されます。
■子供達の2大ヒーローが劇場で激突
当時の小中学生ゲーマー達から神として崇められテレビ・雑誌・アニメ・TV番組等で活躍していた高橋名人(現ハドソン)と毛利名人(現ファミ通編集部)が対決する映画が劇場公開されたりとファミコンは社会現象としてゲーム業界の枠を超える影響を周囲に与えていました。(ちなみに当時高橋名人は27歳、毛利名人は19歳)
■小島秀夫氏がコナミに入社
この年、後にメタルギアシリーズで世界中にその名を轟かせる小島秀夫氏がコナミの神戸支社に入社しています。大学生の頃にアーケードゲームに夢中になり、当時イーアルカンフー等をリリースしていたコナミに興味を持ち、「ここならファミコンを作らせてもらえる」と入社を決めたそうです。
しかし小島氏が配属されたのは、1983年に米マイクロソフトとアスキー(現アスキーメディアワークス)によって提唱された8ビット/16ビットパソコンの共通規格統一規格であるMSX用ゲームの開発部署でした。
希望だったファミコン開発が出来ず、当時は会社を辞める事も考えていた小島氏。更にMSXはファミコンよりハードウェア上の制約が厳しかった為に上司から「画面上の戦闘員を3人に限定し、射撃アクションも出来るだけ少なくしたシューティングゲームを作れ」という難問を科されます。
ただでさえファミコンより制約の多いMSXでどうすればゲームが成立するのか……戦場を舞台背景に決めた小島氏は最初の案として、「戦場では多くの兵隊や武器が飛び交うが、それらを描画するハード性能は無い。ならば戦場でありながら戦いを避け、敵に見つからないように隠れるゲームはどうか」と敵に捕らわれた特殊部隊の工作員が捕虜収容所から脱出する設定を考えます。
しかしから逃げ回り隠れ回る主人公は格好良いとは言えませんでした。そこで小島氏は「敵に見つからないように隠れるという点は変わらないが、そこに単独潜入作戦というストーリー性を持たせることで、緊張感溢れるゲームにすれば」と発想を逆転させ、主人公を特殊工作員として敵地に潜入させる設定に変更します。
当時に「敵を避けながら進む」ゲームは他にもありましたが、子供向けのありがちな世界観ではなく、戦争という現実感溢れる世界観と舞台設定でそれをやろうとしたのは前例のない大きな特徴でした。
こうして翌年1987年7月に発売された「メタルギア」は、戦場が舞台でありながらほとんど戦闘場面のないゲームという例を見ない作品として注目を浴び、その後の続編作品は「ステルスゲーム」という新しいジャンルを確立します。
■5/27 家庭用TVゲーム機初の本格RPG
現在でも日本のTVゲームを代表する存在であるひげおやじが登場した翌年、それまでパソコンでのみプレイされて来たジャンルがファミコンに登場します。
RPG(ロールプレイングゲーム) というジャンルでエニックスから発売された『ドラゴンクエスト』 です。
高校時代から様々な業務用ゲームをパソコン用に移植してマイコン誌「I/O」に投稿、賞金稼ぎとして名を知られた後に1982年の「エニックスゲームホビープログラムコンテスト」で優秀賞を受賞後、大学時代に「チュンソフト」を起業する天才プログラマー、中村光一氏。
大学卒業後にフリーライターとして活躍していた頃にパソコン(ゲーム)と出会って自作ゲームの制作を始め、「週刊少年ジャンプ」編集者の鳥嶋和彦からライターとしてエニックスのプログラムコンテスト取材を依頼された際に自作ゲーム「ラブマッチテニス」を応募して入選、このコンテストで中村光一氏と知り合った縁からシナリオを担当する堀井雄二氏。
フジTV時代にディレクターとして世界初の音楽ランキング番組「ザ・ヒットパレード」や「新春かくし芸大会」 等の番組を手がけ、本来やりたかった作曲活動に専念する為にフジTV退社後はCM・アニメの作曲を数多く手掛け、また無類のゲーム好きとしてエニックスの「森田の将棋」の相手CPUが駒を移動させるアルゴリズムに疑問を持ってユーザーアンケート葉書を投函、それを見たエニックスが「これってあのすぎやまさん?」と連絡を入れた所からゲーム音楽の依頼を受ける様になった大御所、すぎやまこういち氏。
1980年の初連載 「Drスランプ」 ヒット後、1984年から掲載された「DROGON BALL」も大ヒットとなり、すでに売れっ子として多忙だったが鳥嶋の 「やれ」 というやさしい説得でキャラクターデザインを担当した漫画家、鳥山明氏。
以上の豪華過ぎるメンバーによって制作された家庭用TVゲーム機初のRPGでしたが、当時RPGはフロッピーディスクの枚数を増やして容量に対応出来るPC用ゲームとして発売するのが常識とされており、フロッピーディスクより容量の少ないROMカセットでの制作は困難と言われていました。
しかし堀井氏は前年発売したコマンド選択型のテキストアドベンチャーゲーム「ポートピア連続殺人事件」で制作者としてテキストをROMに収めるノウハウと「アクションだけでなく文字をじっくり読んで進めるタイプのゲーム」の存在とメニューに用意されたコマンドを選んで進行するゲームの操作をユーザーにテストケースとして認知させる準備を終えていました。
しかしやはりROMの容量制限の壁は厚く、使う文字やアイテム・画像パターンを極力削る作業が続きました。
また、ポートピアで操作方法を示したと言っても子供達全てがポートピアを遊んで予行練習を事前にしてくれている訳ではないので、制作途中で子供達にテストプレイをさせても町で武器や防具を買わずに素手に素っ裸でフィールドに繰り出してモンスターに惨殺される勇者が多発し、「すぐやられてつまらない」と子供達の評判も散々で中々意図した通りに遊んでもらえませんでした。
そこで堀井氏はゲーム開始時に王に謁見する名目で部屋にプレイヤーを閉じ込め、メニューに用意されたコマンドを一通り使わないと町から外へ出られない様なチュートリアルを用意する等、工夫を凝らします。
またシナリオの重要な部分となる謎解きでも、先のポートピアで堀井氏が考案したあらかじめ用意された命令(コマンド)を選択する「コマンド選択方式」を使って適度に用意されたゲーム中のヒントから次の行動が選択出来る様に難易度が調整されました。
と言うのも従来のアドベンチャーゲームやRPGはPCで遊ぶものであり、行動する為のコマンドも用意されておらず、キーボードから正しいと思うものを一文字ずつ入力して進めるのが普通でした。(英語版ならもちろん英単語)
更に謎解きもゲームと全く関係無い物も多く含まれており、そうした理不尽な謎を解き明かしてこそコアゲーマーの証という初心者手出し無用なジャンルとして認知されていました。(そんなシステムなのでクリアするのに数ヶ月というのもザラでした)その為、堀井氏のコマンド選択はコマンド総当りでサクサク進めてしまうと当時のコアゲーマーから指摘を受けますが、
・RPGの面白さとはゲームに関係無い、普通に考えたら絶対に解けない謎を用意する事ではない。ユーザーを最後まで導くヒントを順序・バランス良く配置する事が重要
・プレイするユーザー全てがRPGに慣れている訳ではない。しかも家庭用ゲーム機では馴染みの無いRPGに初めて触れるユーザーの方が多いはず。
という考え方を元に、初心者にも操作に戸惑う事無く全てのヒントを集めて考えれば必ずエンディングまで遊べるシステム構築にこだわります。
そんなRPGがまだ浸透していない当時ならではの苦労を1つ1つ克服しながら開発も終盤に差し掛かり、テストプレイもエンディング到達まで確認していよいよマスターアップという所で、堀井氏からほぼ全てのモンスターとの戦闘システムを1から見直したいという信じられない提案が出されます。
テストプレイで難易度調整は取れていましたが、戦闘での敵の行動が通常攻撃の他に「ギラ」「ホイミ」「炎を吐く」の3種類しかなく、敵との単調な戦闘が数十時間続いて飽きるとテストプレイで指摘されていたのです。
堀井氏の初心者にも分かり易くという思いが戦闘システムで裏目に出てしまいます。ある程度開発が進んでテストプレイで戦闘を長時間続けないとゲーム後半の戦闘システムの単調さには気付けない。初のRPG制作で経験不足だった事もあるとはいえ、あまりに致命的な完成間際での発見でした。
敵の戦闘での行動パターンを増やす。それはどの辺りに登場する敵からどれ位の特殊攻撃や呪文を使わせるか?そしてそのモンスターと戦うだろう主人公の想定レベルは?という戦闘バランスを1から取り直す事を意味します。
マスターアップ直前。スケジュールに猶予はありません。しかしつまらないと分かっているゲームをそのまま世に出す訳には行かない。
「ゲーム自体は納品出来る状態。しかしゲームをもっと面白くしたいから時間が欲しい」
この堀井氏の無茶過ぎる要求に対し、プロデューサーの千田幸信(ちだゆきのぶ)氏は1週間のマスターROM納品延長を決断します。(生産ラインの工場や他関係各所に絶大なご迷惑が発生します)
通常では到底考えられない修正をスタッフ総掛かりとなって1週間で終えたゲームは家庭用ゲーム機初のRPG「ドラゴンクエスト」として予定通り5月27日に発売されます。
堀井氏が細心の注意を払った家庭用ゲーム機初のRPG、しかし商品としてその売り上げは芳しくありませんでした。スーパーマリオを始めとするアクションゲーム全盛時代に、キャラがゆっくり動いて画面に派手さも無く、しかも文字を読むのが面倒臭いという当時の子供達の余りに当然過ぎる反応でした。
しかし元々パソコンでRPGを遊んでいたのは小さな子供ではありません。中高生以上の大人達をメインターゲットに人気を博してきたジャンルです。発売直後の販売本数に表れなかったとはいえ、そうした世代にこのゲームは確実に驚きを与えていました。
「ファミコンでRPG、だと・・・?しかも面白い・・・どうなってんだ一体」
正直子供向けのおもちゃとしてファミコンを軽視していたPCで従来のRPGを遊んでいたユーザー達は驚愕します。そして制作者側にも「ファミコンでRPGが作れるのか」と衝撃を与えます。
全くRPGを事前に見た事も聞いた事もないマリオ好きな子供達は仕方ないとして、もう少し年齢が上の「RPGをやってみたいけどパソコンなんて高くて買えないし」というやった事無いけど興味がある人達にとって、¥14800のファミコンで遊べる本格RPGとしてドラクエはうってつけでした。
更に元々PCが主戦場だったジャンルだった事から、その完成度に驚愕したPC専門誌のライター陣が「ゲーム専用機でとんでもないRPGが出た」とその魅力を紹介した事から口コミで噂が広まって行きます。
そうした経緯で徐々に人気が広がり、年間売り上げは150万本というミリオンセラーを記録して 「家庭用ゲーム機でRPGは無理」 という前評判を覆して一躍人気ジャンルとしてRPGを定着させます。
その後もドラクエは「家庭用RPG」として以降発売される続編が人気を博し、徹夜の行列でTVや新聞等でも取り上げられる程の社会現象と呼ばれるビッグタイトルとして日本のみならず世界規模で知名度を持つタイトルとして今でも関連タイトルが発売されています。
そして翌年、ドラクエの成功を見た会社倒産の危機に瀕したあるメーカーが「自分達も最後の勝負に家庭用機でRPGを作ってみよう」と最後の賭けでタイトルを発売します。彼らが賭けで作った「最後の夢」はその後、彼らにとって雲の上の存在だったドラクエと不思議な運命で繋がって行きます。
■6/3 ひげ兄弟、再び
前年の爆発的ヒットでファミコンソフトの代名詞となった「スーパーマリオブラザーズ」の続編がディスクシステムで発売されます。(当時任天堂は容量の制限が厳しく単価も高いROMカセットからディスクシステムへの移行を目指しており、ディスクメディアでの発売でした)
・取るとダメージを受ける毒キノコの登場
・マリオとルイージでジャンプ力や着地時の摩擦力に違いが生まれ、ゲームスタート時にどちらを使うか選べる
・ワールドを戻される逆ワープゾーン
・ジャンプ難度を上昇させる風が吹く
・前作で裏技として話題になった「9-1」の出現
・ステージクリアのポールにつかまった際に花火が鳴る法則の変更と1UPの追加
等の追加仕様もありましたが、見た目や操作方法は基本的に変わりませんでした。前作との最大の違い、それは「とにかく難しい」という事でした。
最高の人気と知名度を誇るタイトルの続編として、そして任天堂が目論んだ「ROMカセットからディスクへの移行」を促すタイトルとして注目され、結果として265万本という大ヒットになりました。
しかし、スーパーマリオの続編をもってしてもディスクシステムが予想より普及しなかった事から前作の爆発的な販売本数とは行かず、何より難易度を上げ過ぎた事で挫折するユーザーも多かった事から「あの」スーパーマリオの続編としては物足りない結果に終わりました。
■8月 アーケードでストリートファイター稼働 (基盤価格¥148,000)
カプコンの西山隆志氏は、アイレム在籍時に手掛けた「スパルタンX」というゲームに登場するステージボスとの対戦シーンだけを抜き出したアクションゲームを考え、8月に業務用2D対戦型格闘ゲーム「ストリートファイター」として発売されます。
アップライトとテーブル筐体の2種類が発売され、アップライト筐体ではレバーとボタン2つという構成だったのですが、このボタンがとにかく大きい物でした。このボタンには圧力センサーが内蔵されており、ボタンを叩く強さに応じて圧力センサーで強弱を判定し、発動する技が弱・中・強の3段階に変化するという物でした。
そしてボタンだけでなく、筺体全体も頑丈で大きいものでした。なぜならこの筺体はアメリカのアタリゲームズ社製で、正直日本人(しかも子供)の体格を考えて作られたとは言えなかったのです。しかも「圧力センサー付きのボタンをバンバン叩くんだから頑丈に作らないと」という事で厚いゴム製ボタンの中身は木版。叩けば叩くほどダメージが手に蓄積されます。
しかも子供が普通に手で押したのでは強攻撃と判定されない為に、肘のエルボースタンプやゲーム内キャラの様に飛び上がって肘を打ち降ろす等、プレイヤー自身が必殺技を習得する必要がありました。稼働開始が真夏だった事もあり、汗を撒き散らしながらプレイするプレイヤーの姿はいつしかこの筺体を「体感ゲーム」ならぬ「体汗ゲーム」と呼ばせていました。
一方のテーブル筺体は1レバー6ボタンで弱中強3種類のボタンがあり、それがパンチとキックそれぞれにあるため6つのボタンが存在しました。基本的に各ボタンを押して攻撃して行くのですが、このゲームには特殊なレバー入力とボタンの組み合わせで発動する、いわゆる「コマンド技」と呼ばれる隠し技が3種類(波動拳・昇竜拳・竜巻旋風脚)存在しました。
しかし絶大な威力を持つこれらの技は、筺体付属のインストカードに存在する事のみが書かれていて、レバー入力は掲載されていませんでした。(竜巻旋風脚に至っては技の記載すらなし)
実は稼働直後にマイコンBASICマガジンで入力方法は掲載されていたのですが、そんな雑誌を手に取る機会のない子供達は、知る知らないでゲームの面白さが別次元になるこの技のレバー入力情報を求めて必死に入力方法を解明します。
そしてレバー入力情報を知ったプレイヤー達はこれで勝てるとばかりに練習するのですが、ほとんど技を思い通りに出す事は出来ませんでした。コマンド技を出すための秘密が実はもう1つ、ボタンの押し方にあったのです。
なんとこのボタン、押しただけでは入力判定が発生しないのです。実は押された時ではなく離された時に入力判定が発生する為、レバーをコマンド入力した方向に止めた状態でボタンを「押して離す」のが真の入力方法でした。
このボタンの入力仕様を知らないとまずタイミングが合わずに技が出ない事から、「コマンド入力情報は知っているのにほとんど技を出せない奴とポンポン技を出す奴」という奇妙な二極化が生まれます。
それでも時間の経過と共にボタンの仕様が知られると、練習すればほとんどのプレイヤーが自在に技を操る様になり、3回当てれば相手をKO出来るコマンド技のバランス崩壊寸前の威力に酔いしれるユーザー達でヒット作となります。(ただしもっぱらプレイするのは圧力センサーのアップライトでなく、6ボタン仕様のテーブル筺体でした。飛び上がってコマンド入力して圧力ボタンを押して離すのはお子様プレイヤーには厳しすぎました。ただ国外ではアップ ライト筐体でも6ボタン仕様の物があったそうです)
特にアメリカではバカスカ圧力センサーを叩いて操作する見てもやっても分かり易い体感ゲームのノリが受けて大ヒットとなり、アメリカ支社から続編を臨む声がが日本に届きます。そうしてカプコンは「STREET FIGHTER87」というサブタイトルで続編を制作してアメリカ支社に見せるのですが、
「我々が求めているゲームはこんな物じゃない。お前達は何も分かっていない」
と怒られます。1対多で闘う横スクロールタイプのベルトアクションゲームだったその続編は「FinalFight」という違うタイトルで発売され、キャラの個性と絶妙な難易度で大ヒットとなるのですが、改めてストリートファイターの続編を作る事になります。
こうして1991年に正統な続編タイトルが発売されます。初代では秘密だったコマンド入力技を初めからインストカードに記載し、ボタン仕様も見直して技を出しやすく、固定だったプレイヤーキャラも8人の各国のファイター達から選べる様にしたこの続編タイトルは「対戦型格闘ゲーム」という新しいジャンルを成立させ、20年以上経った今でも続編が発売される大ヒットゲームとして世界中のユーザーに愛されています。
■12/10 ファミリースタジアム
当時ファミコンで野球ゲームと言えば任天堂が発売した「ベースボール」だけでした。ファミコン初の野球ゲームとして十分面白かったのですが、
・実在するプロ野球の様にリーグの区別がない
・選手ごとに名前や打力・走力等の設定がないので打順の意味がない
・守備はピッチャーを操作して投げるだけ(内外野の守備は自動)で得意な球種や投げ方、スタミナの概念がなく交代もしない
・攻撃ではバッターを操作して打つだけで、ランナーがいる際に盗塁やエンドラン等の戦術が取れない
野球ファンにとっては上記の不満があり、お気に入りのチームとしてチームの色を選ぶ以外に感情移入出来ませんでした。ファミリースタジアムは基本的な画面構成や操作法は任天堂のベースボールを踏襲しつつ、上記の点を改善して野球ゲームファンの支持を得ます。
チーム名や選手名は権利上の問題から実在名ではありませんでしたが、ファンなら誰の事か分かる名前になっていました。個別の能力も設定され、守備ではピッチャー毎に得意な球種やスタミナ値(ゲーム中は数値化されずに球速が遅くなり、変化球が曲がらなくなる)が設定されて守備も基本的に自分で操作し、打者も打率・長打力・走力等のパラメータが設定されて「ランナーを強打者の前にためて一気に生還させる」といった戦い方の駆け引きが生まれました。
これによりファミリースタジアムは「ファミスタ」の略称であっという間に野球ゲームファンの心を掴み、以降1994年まで9年連続で毎年続編が発売される人気シリーズとなります。
「参考資料」
・任天堂公式ホームページ 「ディスクシステムの生みの親 上村氏インタビュー」
・ドラゴンクエストへの道
・DVDファミコンのビデオ 「GAME KING 高橋名人vs毛利名人 激突!大決戦」
・ファミコン本体同梱漫画 「これがファミリーコンピュータだ ディスクシステム編」
・ゲーム大国ニッポン ~神々の興亡~
1986年の主な出来事 (大卒初任給 約144,500円)
『一般』
・スペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ直後に爆発、乗員全員死亡
・チェルノブイリ原発事故
・青函トンネル開通
・東京に宅配ピザの第1号店「シカゴ・ピザ」開店
・車のシートベルト着用義務化
・ビートたけしと弟子が写真週刊誌 「フライデー」 編集部を襲撃、逮捕される
・江戸時代生まれの最後の日本人、泉重千代氏が死去(当然国内最長寿)
・10月4,5日に六軒島で大量殺人事件発生(うみねこのなく頃に)
『ゲーム業界』
・ファミコン周辺機器 「ディスクシステム」 発売。第一弾は 「ゼルダの伝説」
・「ファミコン通信」 創刊。いきなりドラクエラスボス写真を掲載して警告スタート
・ファミコン 「スターソルジャー」 発売。子供達の中で高橋名人は神格化され、
漫画化、アニメ化、映画化、レコード化と人気は最高潮に
『連載開始漫画』
・聖闘士星矢 「週刊少年ジャンプ」
・おぼっちゃまくん 「コロコロコミック」
・ちびまる子ちゃん 「りぼん」
・YAWARA! 「週刊ビッグコミックスピリッツ」
・ミスター味っ子 「週刊少年マガジン」
・ジョジョの奇妙な冒険 「週刊少年ジャンプ」
・美味しんぼ 「ビッグコミックスピリッツ」
『ヒット曲』
・仮面舞踏会、MyRevolution、CHACHACHA、シーズンインザサン、君は1000%
『流行語』
・究極、プッツン、激辛、家庭内離婚、ファミコン、新人類、おニャン子
『この年に生まれた有名人』
・柳原可奈子、亀梨和也、沢尻エリカ、本田圭祐、ダルビッシュ有、
・小清水亜美、福原香織, 廣田詩夢, 酒井香奈子, 後藤沙緒里、岡本信彦
『ドラマ・映画』
・男女7人夏物語 ・あぶない刑事 ・スケバン刑事Ⅲ
・親子ゲーム ・この子誰の子? ・太陽にほえろPart2
・子猫物語 ・ロッキー4 ・グーニーズ
・バタリアン ・ドン松五郎の生活 ・クロコダイルダンディー
『アニメ』
・ドラゴンボール ・機動戦士ガンダムZZ ・魔法のアイドル パステルユーミ
・めぞん一刻 ・聖闘士星矢 ・Bugってハニー
・光の伝説 ・ウルトラマンキッズ ・宇宙船サジタリウス
・あんみつ姫 ・剛Q超人イッキマン ・メイプルタウン物語
・マシンロボ ・天空の城ラピュタ ・北斗の拳

