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1983年(昭和58年):アタリショックと赤白の家庭用ゲーム機

 

・3/25 バンダイからアルカディア

・5/10 アタリからアタリ2800
・7/15 ファミコン
・7/15 セガからSG1000
・7・15 セガからSC3000
・7/19 カセットビジョンJr
・10/中旬 カシオからカシオコンピュータゲームPV-1000
・11中旬 ツクダオリジナルからオセロマルチビジョンFG-1000

 

「ヒットタイトル」
・FCベースボール   235万本
・FC麻雀       213万本
・FCマリオブラザーズ 163万本

 

■3度目のドンキーコング、そして大工から配管工へ

1983年に宮本氏は「マリオvsコング」の図式を無くしてそれぞれが主人公のゲームを制作します。コングが主人公のゲームは「ドンキーコング3」と呼ばれ、ドンキーコングからドンキーコングJrになって全く違うゲームになった様にこの「3」も全く別のゲームになります。このゲームではマリオの代わりにスタンリーという主人公がコングと対決します。

 

しかしキャラこそドンキーコングでしたが、ゲームシステム自体は1980年に任天堂が発売したシューティングゲーム「スペースファイアバード」を流用したもので、正直「ドンキーコング3」というタイトルに名前負けした印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてもう一方のマリオが主人公となるゲームですが、宮本氏はこの時知人に「マリオってやってる事はまるで配管工じゃないか?」 と指摘を受けたそうです。そこで 「マリオが配管工のゲーム…?」 と考えます。

後に 「マリオブラザーズ」 と呼ばれるこのゲームで、マリオに兄弟 「ルイージ」 がいる事が発覚します。この兄とほぼ同じ風貌を持つ弟の名前ですが

 

・NOAの本拠地ワシントン州レドモンドにあるイタリア料理店『マリオ&ルイージ』から

・マリオの色違いという事で日本語の 「類似」 から

・映画「恐怖の報酬」に出て来る主人公マリオとその友人ルイージから

 

・・・と諸説ありますが任天堂公式サイトでは『類似から?!』と書かれています。(?!が付いて他説も否定していないので真相は不明)そしてタイトルですが、困った事に 「マリオ」 が名字になってしまったのです。マリオが名字だとすると名前は・・・やっぱりマリオです。なのでマリオの名前は「マリオ・マリオ」という事になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いてゲーム画面ですが、これは米ウィリアムズ社が出した「ジャウスト」というゲームが元になっています。(バルーンファイトの元にもなっています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

システムはジャウストの様に空中をフワフワ飛ぶのではなくジャンプで足場を移動して土管から出て来る敵を下のフロアからパンチでひっくり返して蹴飛ばして退治するという内容でした。そしてこの頃、念願だった「ポパイ」の版権が取れた事から業務用ゲームを制作します。

 

■アタリショック

NOAが着実にアメリカ市場での地位を確立して行く中、なんとそのアメリカTVゲーム市場がこの年に崩壊してしまいます。原因は業界トップのアタリ社が出した家庭用TVゲーム機 「VCSシリーズ」のゲームに粗悪品が相次ぎ、ユーザーの怒りが爆発した為です。

 

そしてなぜ粗悪品が氾濫したのかと言えば、アタリ社の親会社であるワーナー社が「ロイヤリティさえ払ってくれればサードパーティは拒みません」と言ってゲームの内容を全くチェックせずにどんどんVCS用カセットとして製造を許可してしまったからです。

 

おかげでTVゲームバブルの甘い汁を吸おうとゲームを全く作る気の無いメーカーが他社タイトルをちょっと改変しただけの物やまともに動作しない物を次々と新製品として発売してしまいました。(ワーナー社も自社ソフト「E.T」 の何百万本もの売れ残りをばれない様に穴を掘ってコンクリートで埋め立てて2014年に発掘された記録が残っています)

 

インターネットやTVゲーム情報誌等が無かった当時はパッケージを見て内容を推測するしか無く、他社ソフトの模倣ならまだしもまともに動作するか分からない商品ばかりショーケースに並んだのでは売れる訳もありません。

1982年末のクリスマス商戦から売り上げは下降の一途を辿り、翌年に完全に市場が 「停止」 します。

 

一応この年、アタリ社のVCSは本格的な日本進出を果たしています。『アメリカのトップメーカーがとうとう日本に』と国産メーカーは黒船の来航に戦々恐々としていました。しかし日本ユーザーからそっぽを向かれる事になります。国内メーカーのTVゲーム機と比べて画像・音・システム全てで見劣りする物だったからです。(ファミコン発売の年に来た時点でタイミングも悪過ぎました)

 

■セガ初の家庭用TVゲーム機

1977年の第1次組み立てTVゲーム機から久しぶりの第2次TVゲームブームとなったこの年、家庭用・業務用そしてホビーパソコンと様々な機種が発売されています。この年の話題はなんと言っても某任天堂から発売される赤と白のおめでたい色の家庭用ゲーム機ですが、セガから「SC-3000」(¥29800)というゲームパソコンと「SG-1000」(¥15000)というゲーム専用機が発売されます。(SCはSega_Computer、SGはSega_Gameの略でSG1000はSC3000からキーボードを除いただけでした)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファミコンと発売日を同じにするなどライバル意識満々でしたがファミコンに大敗北を喫します。(初年度販売台数はファミコンの300万台に比べ15万台。実はファミコンに張り合いたいだけでSC3000からキーボードを外してSG1000として売ったという話もありますが不明です)とはいえセガは当初販売台数を5万台前後と予想しており、予想の3倍売れた事でその後も継続して家庭用TVゲーム市場に参入して行きます。

 

■常識を覆すシューティングゲーム

この年、ナムコが1981年から開発していたシューティングゲームが発売されます。この業界初の縦スクロールシューティングは1981年にコナミが発売した横スクロールシューティング「スクランブル」の対空・対地上用に弾を撃ち分けるシステムを参考にしたもので、ベトナム戦争をモチーフにした「シャイアン」というタイトルで開発していました。しかし開発スタッフの激しい入れ替わり等でプロジェクトは崩壊寸前に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「続き、やる?」

 

1981年ナムコ新入社員の遠藤雅信氏は上司の問いに

 

「やっていいならやりますよ」

 

こうしてシステムプログラムを担当する深谷正一氏を始めとする遠藤氏を含めた5~6人のチームで引き継ぎます。しかしこの時遠藤氏は全くのプログラム未経験者でまずプログラムの勉強から始めたそうです。(プログラムはなんと1ヶ月程で習得したそうです)

 

このゲームのシステムプログラムを担当していた深谷正一(ふかたにしょういち)氏はナムコ黎明期を支えた天才と呼ばれるプログラマーで、ナムコ社内で遠藤氏を始めとする多くのプログラマーを育成された方として知られています。しかし1980年代にナムコが黄金時代と呼ばれてユーザーから絶大な支持を受けたど真ん中の1985年に31歳の若さで亡くなってしまいます。人望の厚い深谷氏の死を悼み、この頃発売されたいくつかのタイトルには氏へのメッセージが込められています。当時深谷氏のチームが開発していた源平討魔伝をプレイしてエンディングを見て「誰だろう?」となった人も多いのではないでしょうか?(下の動画は5:20からエンディングが始まります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「深谷氏へのメッセージが入っているタイトル」
 ■モトス(1985年9月)
 SPECIAL THANKS TO CHIEF FUKATANI
 
■イシターの復活(1986年7月)
 THIS GAME DEDICATED TO OUR MASTER THE LATE Mr. SHOUICHI “GOD” FUKATANI
 
■源平討魔伝(1986年10月)
 神様は死んだ 悪魔は去った (中略) 神も悪魔も降り立たぬ荒野に我々はいる 故 深谷正一氏にささぐ。
 
■ドラゴンスピリット(1987年6月)
 SPECIAL THANKS TO THE LATE Mr. SHOUICHI “CHIEF” FUKATANI

 

「期待されていなかったから好きにやれた」後に遠藤氏がインタビューで話している通り、独自の発想によってゲームは当初予定の内容から大きく姿を変え、それまでインベーダーの影響を色濃く受けたものばかりだった当時のシューティングゲームの常識も塗り替えます。

 

「敵キャラが並んでプレイヤーにやられるのを待っているのは変だ」まず遠藤氏は社会現象になった「スペースインベーダー」を始めとする「的の様に並ぶブロック崩しを模した敵」を否定する所から始めます。「はじめにこういう敵が出てくる。次はこういうつながりでこの敵が出て来る」そして遠藤氏はプログラミングの前に敵キャラ(兵器)がどう進化して何を目的にどう開発されていったのか、という「敵兵器の歴史」を考えていったそうです。更に独自の発想を元に世界観を徹底的に作り込んで行きます。

 

・ゲーム世界用の言語を考案

・シューティングの背景といえば真っ黒い宇宙が当たり前→どこまでも緑が続く大地

・敵だってやられたくない→逃げたっていいはず

 

このゲームは2つのボタンを使って対空・対地用の武器を使い分けるシステムだった為、地上弾で敵を狙いやすくする照準が付いていました。地上の敵と照準が重なると照準の色が変わる 「ロックオン」 の様なシステムを考えていた遠藤氏は、敵が隠れていても照準の色が変わればそこに敵がいるという索敵(隠れている敵を探す)を考えます。

 

「索敵が出来るなら見えない敵がいてもいい。でも見えないままじゃどんな敵だったのか分からないから出てくる」そんな敵を考えます。これが後のゲーム業界に大きな影響を与える「隠れキャラ」の元祖と言われるのですが社内での意見は真っ二つだったそうで、特に上司は「標的を撃つ事に爽快感があるのに隠してどうする」とシューティングどころか従来のTVゲームの常識を覆す仕様に懸念を示し、遠藤氏に仕様の削除を命じたそうです。

 

しかし遠藤氏はこの指示を「どうせ見えてないし」と華麗に無視したそうで、その後の直ってないぞという上司の指摘にも「あーまだ直ってないすかーすみません」とシラを切り通したとか。しばらくするとデバッグチームが「ここにもあったぞ」と隠れキャラを探すのに夢中になり始めて 「キャラ探しって面白いんじゃない?」 という雰囲気になったそうです。

 

「面白いのは分かったからいくつ埋まってるのかレポートを出してくれ」ついに上司も仕様を承認、当時の戦争物から神秘的な世界観に変わったゲームはタイトルも「ゼビウス」と名を変えて1983年に発売されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲームセンターに登場すると、背景がお決まりの黒い宇宙では無いどこまでも続く美しい大地が目を惹き、意思を持つかの様な敵の洗練された動きと統一された独特の世界観が話題になります。そして何より、偶然出現させたユーザーが「なんだこれは!?」とこれまでにない「隠しキャラ」に驚愕し、その出現場所や実際には存在しない嘘の仕様までが全国のゲームセンターから口コミで飛び回ります。

 

「作りこまれた世界観とどこまであるのか分からない隠しキャラ」ユーザーの想像力を刺激しまくるこの仕様によって空前の人気ゲームになると共にネットが普及していない当時では貴重な情報源だった出現場所や攻略法を同人誌で紹介して1万部以上を売るサークルなど、全国的な知名度を持つゲーマー集団が現れ始めます。

 

そして、そんなゼビウス攻略本を出版するゲーマーサークル達の中に「ゲームフリーク」というサークルがありました。

 

■開発コード「GAMECOM」(ガメコム)

「TVゲーム6」 や 「15」 以来となる任天堂の家庭用TVゲーム機がいよいよこの年に発売されます。

1983年、ゲーム&ウォッチの制作で提携したシャープから引き抜きで任天堂に来た上村雅之氏に山内社長が1981年に指示してから丸2年が経過していました。

 

まず本体の性能に直結するCPU(中央演算処理装置)とPPU(画像処理装置)のICチップ開発に乗り出します。

上村氏はかつてゲーム&ウォッチを共同開発し、自分が勤務していたシャープに話を持って行こうとしましたが山内社長が出した条件は・・・・

 

 ・本体内蔵型でなくカートリッジ交換型

 ・ゲーム&ウォッチ製造に影響が出るのでシャープ使用禁止

 ・定価1万円以下

 ・少なくとも他社が3年は対応出来ない性能

 ・発売は1年後の1982年夏

 

正直、かなり無茶な要求でした。当時はパソコン需要が個人・企業共に急速に拡大傾向で生産ラインが空いている工場はなく、更に任天堂の性能・価格共に無茶な要求を聞くメーカーはありませんでした。

 

山内社長から指示を受けてから約2ヶ月。チップを設計・製造してくれる工場を探しているとリコーから「工場を作ったんだが誰も使ってくれずにラインがほとんど稼働していない。任天堂さんで使えないか見に来て欲しい」と連絡が入ります。当時リコーは1980年に半導体事業に参入した新規参入社で、1981年に工場を完成させましたが実績不足から取引相手が見つからなかったそうです。

 

上村氏が工場を見に行くと工場の稼働率はなんと1割ほど。そしてここで幸運な偶然が起こります。以前任天堂が初の家庭用TVゲーム「TVゲーム6」と「15」を三菱電機と共同開発した際、その専用LSIを開発した技術者の入木広満氏がなんと三菱からリコーに転職していたのです。上村氏が入木氏に事情を説明すると 「ぜひやりましょう」 という事に。ここで上村氏が放った一言。

 

「ドンキーコングが動くものを作れますか?」

 

この言葉の意味は

 

「多くの電子部品を搭載した業務用基盤で稼動していたドンキーコングを動かせるワンチップICを作れますか?」

 

という意味です。山内社長に負けない無茶要求っぷりです。しかし、逆にこの一言が稼働率の低い工場で「挑戦」に飢えていたリコーの技術者さん達を奮起させます。

 

「ドンキーコングを家に持って帰るぞ!!」

 

こんな経緯から上村氏はリコーの技術者さん達と一緒に山内社長の無茶要求と闘い始めます。(リコーの技術者さん達がゲーム好きだったのは言うまでもありません)当時他社のTVゲーム機に搭載されていたICチップはザイログ社の「Z80」が多く、任天堂も当初はZ80を採用する考えでした。しかしリコーがライセンスを持っていたモステクノロジー社のCPU 「6502」 をベースチップに決定します。6502を採用した理由として

 

・Z80に比べてチップの大きさを4分の1に出来た

・国内で6502は当時あまり知られておらず、他社に構造を解析される時間を稼げた
(山内社長の 「3年は追随されないもの」 という要求の実現)

 

等があったそうです。そして無茶な仕様要求の上に任天堂はこのチップのコストを1個2千円という破格値でリコーに打診したそうです。これにはさすがにリコーも 「必ず売れる保証の無いチップをそんな安値で作ったのでは…」と難色を示しますが、任天堂の「2年間で300万個必ず購入するからお願い!!」というこれまた破格な仕入れ数を提示して要求を通します。(後に山内社長がそんな事言っていないと否定したというコメントもあり)チップの仕様が決まって次は本体の仕様ですが

 

 ・パソコンとの差別化を明確にする為にキーボード排除

 ・コントローラはゲーム&ウォッチで採用した十字キー → 子供が誤って足で踏んづけても

  怪我をしない様にジョイスティックは却下

 ・本体のプラスチックの色は山内社長が自分の赤いマフラーを上村氏の所にわざわざ持って来て

  「この色がいい」と指示したため。赤いプラスチックは値段も安かったので決定

 ・コントローラーは2つ装備して本体に収納

 ・コスト削減の為にコントローラは本体に直付け→ 当初は本体前面にコネクタを用意して

  コントローラを接続する予定だった為にケーブルは本体内部の前面から後部までぐるっと迂回する事に

 ・カートリッジは磁気カセットテープと同じ大きさ→ オーディオカセットケースの需要も期待したが

  結局1回り大きいサイズに

 ・「TVから自分の声が聞こえてきたら面白いのでは?」上村氏の発案でコントローラⅡにマイク機能

   → あまり受けず

 ・コントローラ接続端子は無くしたが、ゲームセンター気分で遊べるオプションのジョイスティック

  接続用に15ピン端子を装備

 

「性能の向上は惜しまず、それ以外のコストは削る」上記の経緯を経て本体が製作されました。しかしコストは削っても性能面、特にグラフィクス能力は妥協しませんでした。デザイナーの宮本氏をはじめ、開発現場のクリエイター達がチップ開発に参加、色数やスプライト枚数等をハード・ソフト双方の技術者で話し合い、作り易く使い易いチップに調整しました。

 

…と書けば終わりなのですが、特にチップはマイナーな6502を使うという事でとにかく資料が無く、専用LSI開発と並行してそのチップで開発する為のツール作りも1から行う必要があったそうです。ゲーム開発が困難で進まないそんな状況の中、発売年の1983年に救世主が現れます。新入社員の加藤周平氏が大学時代にジャンク屋で購入した基盤の改造経験から6502の構造を熟知していたのです。

 

加藤氏は入社して新人研修を受けるどころか、経験豊富な開発スタッフに6502の構造を講義する立場となり、一気に開発スピードが向上したそうです。当時宮本氏はファミコン用ソフト「デビルワールド」を開発中でした。ちなみにこのタイトルは北米では発売されていません。

 

当時北米ではゲーム否定派がTVゲームを悪魔呼ばわりしており、十字架と聖書を持ったドラゴンが地獄に行って悪魔を退治するゲームは危険と判断されたからです。(デビルワールド制作後はアイスクライマーとエキサイトバイクを監修)そして7月15日、ついに「ファミリーコンピュータ」は発売されます。(「ファミリーコンピュータ」 の名付け親は上村氏の奥様だったそうです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時『業務用ゲームを家庭用に移植する』と言えば業務用と見劣りする部分を「家庭用だし仕方ないよな」とあきらめながら脳内補完でプレイするのが当然でした。しかし業務用で大人気だったドンキーコングを完璧に移植したのです。価格も¥14800と従来家庭用機とほぼ同じかそれ以下でした。(ロンチタイトルはドンキーコング、ドンキーコングJr、ポパイの3つ)

 

じつはこの頃は多くのメーカーが家庭用ゲーム機を販売しており、ファミコンは 「第二次テレビゲームブーム」 に乗り遅れてゲーム機市場に参入した後発組でした。

 

そんな激戦の中でも業界トップになれたのは、とにかくソフトの面白さでした。CMを見てそれが家で出来る家庭用TVゲーム機だと分かると子供達はおもちゃ屋に殺到します。(CMも他社が人気タレントを使う所を手だけの出演にしてプレイ画面を流すのみ。「画面を見れば分かるだろう」 と言わんばかりの任天堂の自信が伺えます。)

 

しかし最も注目が集まる発売直後が命と言われる家庭用TVゲーム機において致命的な「不具合」がPPU(画像処理プロセッサ)で発見されます。任天堂は流通している全てのファミコンを回収・無償修理するという膨大なコストが掛かるリコールを即時に決断、実行します。

 

不良のチップだけでなく内部基盤を全て交換したそうです。以降も修理で送られて来たファミコンカセットを交換した際にカセットに貼られていた名前シールをわざわざ交換後のカセットに貼り直して返送するなど、任天堂のユーザーサポートは現在でも高く評価されています。出荷は止まり、クリスマス商戦を棒に振りますが流通業者からその迅速な対応が評価され、更に年が明けると「子供達が殺到してすごい売れ行きだ」と問屋からうれしい知らせが入ります。

 

結果としてファミコンは発売から1年で約300万台を売り上げました。このファミコン発売からの1年間、任天堂は自社製ゲームタイトルのみを発売してヒットを連発、人気を不動のものにしています。品質管理が十分に出来ない中でサードパーティを参入させてつまらないゲームが発売されてファミコンがアタリショックの二の舞になる事を憂慮した為です。

 

そして実はこの1年間、前述したCPU(6502カスタムチップ)の複雑な構造に任天堂ゲーム開発陣が手間取り、後続のタイトルが中々発売出来ないピンチな状況でした。そこに1980年に設立された「HAL研究所」というゲームメーカーに入社して2年目という若者が「ファミコンでゲーム作る仕事ください」と突然訪ねて来ます。

 

ライバルメーカーの多くがまだファミコンに6502ベースのチップが使われている事すら突きとめられていなかった当時、その若者はファミコンが6502を使っている事を知っていたばかりか6502の構造も熟知していました。そして任天堂の開発陣さえ知らない仕様を解説し始めた上に、開発スタッフも驚くプログラミング技術で難航する新作タイトルの開発を一気に推し進めてしまったのです。任天堂の開発者を凌駕する知識を持つ若者は名を岩田聡と言いました。

 

そしてそんな自社タイトルのみで売り上げを伸ばす中、その後もファミコン人気を継続する為に任天堂はサードパーティ制度を整備して行きます。

 

■任天堂の販売戦略

前述の通り、この年アメリカは 『アタリショック』 によってゲーム市場が崩壊しました。そしてそれを目の当たりにしていた任天堂は 『防衛策の必要性』 を強く感じていました。ファミコン発売当初はこうした防護策がなかった事から、1983年の発売から1年間任天堂はサードパーティなしの自社タイトルだけでファミコン人気を定着させます。そしてその後もファミコン人気を継続させ、更にコピーソフトの氾濫を防ぐビジネスモデルとして1986年までに以下のラインセンス契約制度を取り決めます。

 

 ・ソフトメーカーはファミコンが任天堂の著作物である事を認める

 ・ファミコンソフトの発売には任天堂の許諾を必要とする

 ・商標や販売ノウハウの提供に対して任天堂に対価を支払う

 ・ソフトメーカーが年間に発売出来るタイトル数を任天堂が決める

 (新規で実績の無いメーカーは年間3タイトルまで)

 

任天堂はファミコンカセット用の生産工場も自分で準備、ゲームカセットを自社で量産して完成品をソフトメーカーに納品しました。ソフトメーカーは自分で生産ラインを組まなくて済み、任天堂は製造手数料をロイヤリティに上乗せ出来ます。対してソフトメーカーはカセットを作ってもらわなければどうしようもないのですから製造費は任天堂の言い値で払う事になります。

 

さらに年間リリースタイトル数も制限した事で、適当なゲームソフトを発売して貴重なリリース枠を無駄に消費させない様に、慎重に時間を掛けてゲームを制作させる様にしたのです。この様に任天堂は粗悪ソフトの製造を防ぎ、そして『うちのファミコンでゲームを作っていいよ』という許可を出してソフト1本につきいくらか(当時2千円前後)の利益が入って来るロイヤリティ販売システムを確立します。(初期販売本数が30万本なら、その後作ったROMカセットが売れる売れないに関わらず任天堂は30万本×2000円で6億円の収入が確定します)

 

しかしファミコン最初期に参入表明したサードパーティの中で、特にアーケード等でヒットタイトルを持つメーカーには特別待遇としてこの制限を設けませんでした。(ハドソン、ナムコ、コナミ、 ジャレコ、タイトーなど)

こうして品質対策と利益確保の環境を整えた任天堂は、その後サードパーティを増やしてファミコンブームの幕が開けて行きます。

 

(参考資料)
・それは 「ポン」 から始まった
・ボクがゼビウスを作った理由
・ニンテンドー・イン・アメリカ
・京都大学経済学会 「経済論叢」
・「日経エレクトロニクス」1995年1月16日号「ファミコン開発物語」
・任天堂公式ホームページ 「社長が訊く『スーパーマリオ25周年』」

 

 

1983年の主な出来事 (大卒初任給 約132,200円)

 

『一般』
・東京ディズニーランド開園 (開園から1ヶ月で来場人数500万人を突破)
・領空侵犯した大韓航空機がソ連攻撃機に撃墜 (乗客約270名全員死亡)
・夏の全国高校野球大会で桑田真澄が史上初の1年生優勝投手に
・アメリカの人気歌手カレン・カーペンターが心不全で32歳で死去
・参議院選挙の全国区で初めて比例代表制が導入
・日本初の体外受精児誕生
・劇団四季のミュージカル「キャッツ」が新宿キャッツシアターで始まる
・中国自動車道全面開通
・NHKの連続テレビ小説「おしん」が視聴率62.9%を記録
・プロ野球阪急ブレーブスの福本豊が939盗塁の世界新記録達成
・三宅島噴火
・雛見沢で大災害発生 (ひぐらしのなく頃に)

 

『ヒット曲』
・矢切の渡し、め組のひと、初恋、めだかの兄弟、さざんかの宿、氷雨

 

『ヒット商品』
・ファミリーコンピュータ、キン肉マン消しゴム、家庭用アイス製造機どんびえ
 ワープロ書院、防虫剤ゴン、ポケットテレビ、石鹸入浴剤バブ

 

『流行語』
・いいとも!、ロンヤス、頭がウニになる、義理チョコ

 

『この年生まれた有名人』
・阿澄佳奈、井ノ上奈々、加藤英美里、鹿野優以、清水香里、前田愛

 

『テレビ・アニメ』
・聖戦士ダンバイン   ・装甲騎兵ボトムズ     ・キン肉マン
・プラレス三四郎    ・魔法の天使クリィミーマミ ・キャッツアイ
・キャプテン翼     ・光速電神アルべガス    ・スプーンおばさん
・銀河疾風サスライガー ・銀河漂流バイファム    ・超時空世紀オーガス

 

 

 

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